讃美歌545,2,411,284,547,544、交読文17(詩65篇)
12月半ば頃、ひとつの質問をお受けしました。
「受洗、あるいは信仰に入ったきっかけになった聖句がありますか」。
自分の事ではなく、一般的なこととしてお答えしました。
宣教師などがよく挙げるのは、ヨハネ3:16ですね」
少々不誠実だったかと反省しています。以来、そのことを考えています。
最近まで、考えていなかったことです。
初心忘するべからず、などと言いながら自分では忘れていました。
考え始めると、芋づる式に出てきます。記憶が繋がります。
更に、当時使っていた文語訳聖書を手に取り、開くと、赤線が引かれており、感動したその頃が思い起こされます。
最初に、心に忍び込み、心を捉えた御言葉はヨハネ3:16でした。
「それ神はその独り子をたもうほどに世を愛したまへり、すべて彼を信じる者の滅びずして永遠の命を得んためなり」。最も大事な言葉である、と感じました。
大学の何年生の時でしょうか。多分4年生ぐらい。銀座から丸の内線に乗って家へ帰ろうとしていました。吊革につかまって、ポケット聖書を読んでいました。御茶ノ水から乗り込んできた人々がいます。欧米系の小柄な老婦人が左隣に立ちました。
暫くすると話しかけてきました。『読んでいるのは聖書ですね』と。
池袋に着くまで話は続きました。福生で伝道している婦人宣教師、間もなく定年のため帰国する、と言います。お尋ねしました。信仰の基盤となる聖句、海外宣教に送り出されたきっかけとなる聖句があるだろう。『聖書の中で一番大事な言葉は何でしょうか』。
『そうですね・・・やっぱりヨハネ3:16でしょうね』。
私は、間もなく神学校へ行き伝道者になるつもり、と話しました。
『帰国しても祈っていますよ』。
この聖句に結ばれた祈りがあるから、私のような不適格な者が、用いられてきたのだ、と信じています。勿論、その他の多くの祈りがある故に、牧師になり続けているのです。
ボクシングです。
受洗の時の言葉はありません。友人が受洗を決意した時、牧師から「持田も誘ってみなさい、と言われた。どうする」。「受けてみようか」。それだけのことでした。よく許可されたものです。
その週、イースターの半ば、水曜日には祈祷会がありました。受洗の感想を話すように言われ、ただ一言『何か踏み切った感じがします』と答えた記憶があります。
聖書を読むのもその後のことです。
覚罪意識、という言葉を老牧師はよく用いられました。
受洗後、間もない頃に、次のような内容をメモしたことを記憶しています。
〈罪がなければ、救いは不必要。罪を認めざるを得ないから罪の赦しの福音を信じる〉。
テモテ前書1:15
「キリスト・イエス罪人を救わん為に世に来たりたまへりとは信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり」。
聖餐式で分餐の前に読まれる聖句のひとつです。
名誉牧師が亡くなるほんの少し前、ご自宅の病床を見舞いました。先生はこう仰いました。『私は本当に罪人です。持田君、私のために祈ってください。今、此処で祈ってください』。祈りました。先生が贖われ、救われていることを信じています。
イザヤ6:8
「我またエホバの声をきく曰く、我誰をつかはさん誰か我らのために往くべきかと、そのとき我言ひけるはわれ此処にあり我をつかわしたまへ」。
これは受洗の翌年だったと思います。教会の修養会があり、そのときの主題聖句。
更に次の年のエレミヤ1:5〜8の召命記事と共に、献身を決意させるものでした。
友人と共に神学大学へ進みました。彼は大変優秀な青年で、学問を知っていました。そのためでしょうか、学部を卒業すると他の大学に戻り、研究を続けることにしました。自分の能力と求めを知った勇気ある決断です。寂しかったけど仕方ない、と思いました。
後に、ルターの『我此処に立つ』という言葉を知ります。友人も私も同じことを感じていたでしょう。彼は大学の教授となり、教会でも良い働きをしているようです。
ヨナ書1:2「起ちてかの大いなる邑ニネベに行きこれを呼ばはり責めよ・・・然るにヨナはエホバの面を避けてタルシシへ逃れんと」
ある時、ふと目覚めました。私の願うことは決して叶えられていない。殆んどの場合、願いとは反対のことが与えられている。
箴言16:9には次のように示されます。口語訳
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」
同じく19:21「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」
納得せざるを得ませんでした。そして、それこそ私が予感していた自分の道筋なのです。
開拓伝道の力、気概はない。衰え弱くなっている教会の建て直しこそ、与えられる道ではないか、と同級の一人に語ったことがあります。今まで、ほぼその通りになっています。
信仰生活の基本と感じるのは、テサロニケ前書5:16〜18
「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ。これキリスト・イエスによりて神の汝らに求むるところなり」。
青年の日に、信仰生活の大きな目標、基本になる言葉、と感じました。これはすべて、自分自身で決することの出来る態度です。周囲の環境、人間関係、などに関わらず、自分が心に決めれば、実行可能です。
これらはすべて、若い日の教会生活で教えられ、学ばされたことです。練馬の桜台教会、小林吉保、哲夫両牧師、山田稔伝道師そして教会の多くの先達、友人たちののお陰である、と感謝しています。
箴言27:6「愛する者の傷付くるは真実(まこと)よりし、
敵(あだ)の接吻(くちづけ)するは偽詐(いつはり)よりするなり」
「愛する者が傷付けるのは、まことからからであり、
あだの口づけするは偽りからである。」口語訳
イスカリオテのユダを思い出させる言葉です。
主は、友のために命を捨てる愛を称揚されました(ヨハネ15:13)。
パウロは信仰、希望よりも偉大なものは愛である、と語ります(?コリント13:13)。
信仰者にとって愛は絶対のもの。
しかし、信仰と善意があっても、更に愛と真実があってもことは解決しません。
かえって難しい、厄介なことになって行くのが現実です。
青年時代、愛を至上なものと考える強い傾向になりやすいときです。
ある種の歯止めが掛けられました。現実の困難さを教えられました。
聖書の深みを知り、複眼的なものの見方を知らされたものです。
こうした中で与えられたのが「汝ら静まりて我の神たるを知れ」詩篇46:10です。
お世話になった方が、ある時、私に必要な言葉はこれでしょうね、と言って示してくださったものです。さまざまなことに一生懸命、立ち働こうとしているのを見て、もっと神に委ねることを教えてくださったのでしょう。思い通りに行かないときなど、しばしば思い出します。口語訳は「静まって、私こそ神であることを知れ」。
残念ながら新共同訳はだいぶ変わりました。46:11になります。
「力を捨てよ、知れ/わたしは神」。これはこれで宜しい、と思います。神を信じ、主と仰ぐ者は、自分の力を誇りとしない、頼りとしないものです。そして、最も力のない、弱い者となる時、神の恵みと御守りを知ることになります。
感謝に溢れる生き方ができるのです。
聖書の言葉は、必要な時に、導きの光を放ちます。
「御言葉が打ち開くれば光を放ち、愚かなる者をさとからしむ」。詩篇119:130
もっともっと与えられた御言葉はあります。このくらいでやめましょう。思い出を語ったようにお感じになられる方も在るかもしれません。しかしそれ以上に、御言葉は、今も生きて働いていることをご理解いただきたく存じます。
新しい一年も、御言葉に導かれ、神のみ手に委ねる歩みを重ねたい、と願います。
感謝して祈りましょう。